代表弁護士の木村哲也です。

私は和歌山市で生まれ、高校卒業まで和歌山市の実家で暮らしましたが、両親が2017年に東京に移住したため、現在の実家は東京にあります。
お盆や年末年始などの長期休暇は東京の実家に帰省することが多く、本コラムの原稿は2026年のお盆期間中に東京の実家で執筆しております。
今回の日常コラムでは、近年、私がお盆期間中に必ず行うようにしている靖国参拝について、お話ししたいと思います。

私は和歌山市で生まれ、高校卒業まで和歌山市の実家で暮らしましたが、両親が2017年に東京に移住したため、現在の実家は東京にあります。
お盆や年末年始などの長期休暇は東京の実家に帰省することが多く、本コラムの原稿は2026年のお盆期間中に東京の実家で執筆しております。
今回の日常コラムでは、近年、私がお盆期間中に必ず行うようにしている靖国参拝について、お話ししたいと思います。

1 靖国神社とは

【第一鳥居(大鳥居)】

靖国神社は、東京都千代田区にある神社です。
明治維新から太平洋戦争までの戦争で国家防衛のために亡くなった軍人・軍属や民間人らが英霊として祀られています。
国のために命を捧げた人びとの霊を慰め、その事績を後世に伝えることを目的として、1869年に建立されました。

【第一鳥居(大鳥居)】

靖国神社は、東京都千代田区にある神社です。
明治維新から太平洋戦争までの戦争で国家防衛のために亡くなった軍人・軍属や民間人らが英霊として祀られています。
国のために命を捧げた人びとの霊を慰め、その事績を後世に伝えることを目的として、1869年に建立されました。

2 靖国問題について

【神門】

反日・左翼の人たちが喧伝する「靖国問題」があります。
靖国問題の論点は多岐にわたりますが、以下では、「参拝」に関連する事項について、私の考えを明らかにいたします。

【神門】

反日・左翼の人たちが喧伝する「靖国問題」があります。
靖国問題の論点は多岐にわたりますが、以下では、「参拝」に関連する事項について、私の考えを明らかにいたします。

Q1:
内閣総理大臣・国会議員・都道府県知事など公職にある者が靖国神社に参拝することは、憲法20条が定める政教分離に違反するのではないですか?
A1:
最高裁判所昭和52年7月13日判決【津地鎮祭訴訟】では、政教分離の解釈に関し、行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になるような場合でない限り、政教分離には違反しないと判断されました。
また、最高裁判所平成18年6月23日判決【首相靖国参拝訴訟】では、人が神社に参拝する行為自体は他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではなく、このことは内閣総理大臣の地位にある者が靖国神社を参拝した場合においても異なるものではないと判断されました。
一方で、最高裁判所平成9年4月2日判決【愛媛玉串料訴訟】では、県が靖国神社に対して玉串料等を県の公金から支出して奉納したことが、政教分離に違反すると判断されました。
下級裁判所では様々な判断がなされていますが、上記の各最高裁判所判例を踏まえれば、公職にある者が靖国神社を参拝したとしても、少なくとも公金の支出を伴うなどの態様のものでない限り、政教分離には違反しないと考えられます。

Q2:
靖国神社は軍国主義の象徴であり、靖国神社に参拝することは侵略の歴史の美化に繋がるのではないですか?
A2:
靖国神社は「国のために命を捧げた人びとの霊を慰め、その事績を後世に伝えること」を目的として建立された神社であり、軍国主義の象徴ではありません。
そもそも、「靖国」とは「国を靖んずる」すなわち「平和な国を作る」という意味です。
また、靖国参拝の共通の目的は「戦没者に対する哀悼と尊崇の意を表するもの」であり、靖国参拝において戦争を美化し、軍国主義の復活を祈るような人はいません。

Q3:
靖国神社にはA級戦犯が合祀されており、靖国神社に参拝することは軍国主義を美化することのあらわれであるなど、問題ではないですか?
A3:
そもそも、極東国際軍事裁判(東京裁判)は、戦勝国が事後法により敗戦国を一方的に裁いたものであり、正当性に欠けると言わざるを得ません。
また、1950年代には、戦犯の赦免・釈放に関する国会決議が複数回なされ、サンフランシスコ平和条約の手続により、関係国の同意のもとにA級戦犯およびB・C級戦犯の赦免・釈放が実現されました。
さらに、1950年代に戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)などが改正され、戦犯やその遺族も法的な援護や恩給の対象となりました。
東京裁判により亡くなった人たちは国内法上の犯罪者とみなされず、一般戦没者と同じように取り扱われることとなったのです。
こうした経緯を受け、国と靖国神社との合意により、戦犯の合祀が進められたものです。
以上のようなA級戦犯の合祀の経緯に加え、上記「A2」で述べたところからすれば、靖国参拝が軍国主義を美化することのあらわれであるとは言えず、問題はないと考えられます。

Q4:
内閣総理大臣、その他の国務大臣など要職にある者が靖国神社に参拝することにより、特定のアジア諸国から非難を受けるのではないですか?
A4:
そもそも、靖国参拝は国内問題であり、他国が口を挟む事柄ではありません。
また、米国の「アーリントン墓地」や英国のウエストミンスター寺院内の「無名戦士の墓」も同様の性格を有する施設ですが、そこで戦没者慰霊のために献花を行うことに対し、同種の執拗な難癖がつけられることはありません。
さらに、旧敵国を含む様々な国の要人・外交官・駐在武官などによる靖国参拝の事例も多くあり、こうした非難の異常性を物語っています。

3 2026年の靖国参拝

【拝殿】

2026年8月13日、靖国神社を参拝しました。
正月と春にも参拝していたため、本年3回目の靖国参拝となりました。

【拝殿】

2026年8月13日、靖国神社を参拝しました。
正月と春にも参拝していたため、本年3回目の靖国参拝となりました。

この日、東京はおおむね雨天であり、雷を伴って強く降る時間帯もありましたが、靖国神社を訪れた正午過ぎには晴れ間が見られました。
お盆期間中ということもあり、参拝者の数は多めでした。

拝殿前での参拝を行ったあと、境内にある「遊就館」を訪れました。
遊就館は、戦没者の遺書・遺品、近代兵器・武具、戦史・公文書資料などを収蔵・展示する歴史・軍事資料施設(宝物館)です。
また、多くの英霊の遺影が掲示されています。
遊就館には過去に1回来たことがあり、今回は2回目の拝観でした。
この日、遊就館にも多くの来場者がおり、外国人の姿も散見されました。

1時間ほど靖国神社に滞在したあと、都内某所にある納骨堂に墓参りに向かいました(両親の東京移住の際に、墓も和歌山から東京に移しています)。

4 靖国神社と太平洋戦争の英霊

【遊就館】

靖国神社には、246万6千余柱の英霊が祀られています。
その中には、太平洋戦争の戦没者らも含まれています。
以下では、私が独断と偏見で選ぶ「日本人として覚えておきたい太平洋戦争の英霊5選」をご紹介させていただきます。
なお、ここでご紹介するのは数多の英霊のほんの一部に過ぎません。
私は、日本のために命を捧げた全ての英霊に感謝と哀悼の意を表するものです。

【遊就館】

靖国神社には、246万6千余柱の英霊が祀られています。
その中には、太平洋戦争の戦没者らも含まれています。
以下では、私が独断と偏見で選ぶ「日本人として覚えておきたい太平洋戦争の英霊5選」をご紹介させていただきます。
なお、ここでご紹介するのは数多の英霊のほんの一部に過ぎません。
私は、日本のために命を捧げた全ての英霊に感謝と哀悼の意を表するものです。

(1)山崎保代(やまざき やすよ)

【山崎保代】

1942年6月、日本軍はミッドウェー作戦の陽動のため、アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアッツ島とキスカ島を占領。
しかし、ミッドウェー作戦は日本軍の惨敗となり、両島の占領は意味を失う。
1943年に入ると、アメリカ軍の反攻が激化し、アダック島に建設された飛行場からの空襲も頻繁になった。
さらに、潜水艦や輸送船による補給も滞りがちとなり、アッツ島守備隊2600余名は孤立感を深める。

【山崎保代】

1942年6月、日本軍はミッドウェー作戦の陽動のため、アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアッツ島とキスカ島を占領。
しかし、ミッドウェー作戦は日本軍の惨敗となり、両島の占領は意味を失う。
1943年に入ると、アメリカ軍の反攻が激化し、アダック島に建設された飛行場からの空襲も頻繁になった。
さらに、潜水艦や輸送船による補給も滞りがちとなり、アッツ島守備隊2600余名は孤立感を深める。

北方軍司令官である樋口季一郎中将(後述)は大本営に両島から守備隊を撤退させることを進言するが、大本営は耳を貸すことなく両島の保持を命じ、1943年4月にはアッツ島の新たな守備隊長として山崎保代陸軍大佐が赴任。
山崎は赴任にあたり夫人と4人の子に遺書をしたためている。
山崎が赴任して約1か月後の1943年5月12日、アメリカ軍はアッツ島上陸作戦を開始、山崎率いる守備隊は敵の5分の1の兵力ながら果敢に迎撃、しかし圧倒的な兵力差の前に次第に戦線を縮小。
こうした状況下で樋口はアッツ島に増援部隊を向かわせる準備を整えるが、大本営はアッツ島の増援計画を放棄する命令を下す。
樋口からの「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力の及ばざること、誠に遺憾に堪えず、深く陳謝す」との電報に対し、山崎は「戦する身、生死はもとより問題にあらず。守地よりの撤退、将兵の望むところにあらず。(中略)将兵一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返信。

【アッツ島守備隊】

1943年5月29日、山崎は将兵らと共に敵陣地目掛けて突撃を敢行、奮戦の末に壮烈な戦死を遂げる。
享年51、戦死後に2階級特進して陸軍中将。
太平洋戦争の防衛戦における最初の玉砕となった。
戦後の遺骨回収において、日本軍守備隊の最も先頭で遺骨が発見されたのが山崎であったと言われている。

【アッツ島守備隊】

1943年5月29日、山崎は将兵らと共に敵陣地目掛けて突撃を敢行、奮戦の末に壮烈な戦死を遂げる。
享年51、戦死後に2階級特進して陸軍中将。
太平洋戦争の防衛戦における最初の玉砕となった。
戦後の遺骨回収において、日本軍守備隊の最も先頭で遺骨が発見されたのが山崎であったと言われている。

(2)中川州男(なかがわ くにお)

【中川州男】

「南洋のサムライ」

西太平洋のミクロネシア地域に位置するパラオは、1885年以降、スペイン、次いでドイツの植民地支配により、苛烈な搾取を受けた。
そして、1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議により、今度は日本の委任統治領となった。
日本の統治が始まってからは、電気や水道、学校や病院、道路など社会基盤の整備が進められ、パラオは目覚ましい発展を遂げる。

【中川州男】

「南洋のサムライ」

西太平洋のミクロネシア地域に位置するパラオは、1885年以降、スペイン、次いでドイツの植民地支配により、苛烈な搾取を受けた。
そして、1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議により、今度は日本の委任統治領となった。
日本の統治が始まってからは、電気や水道、学校や病院、道路など社会基盤の整備が進められ、パラオは目覚ましい発展を遂げる。

1943年6月、太平洋戦争の南方戦線が悪化の一途をたどる中、中川州男陸軍大佐がペリリュー島の守備隊長として赴任。
赴任前、中川は夫人から任地と任務を尋ねられると、「永劫演習さ」とだけ答えたと言われている(「永劫演習」とは、帰還を望めない戦場という意味)。
1944年9月15日、アメリカ軍はペリリュー島上陸作戦を開始。
日本軍の守備隊が約1万に対し、アメリカ軍の攻撃隊が約5万という圧倒的な兵力差であった。
ペリリュー島にアメリカ軍が迫る中、島民たちの中には日本軍と共に戦いたいと申し出る者もあった。
しかし、中川は決して共に戦うことを許さず、戦闘開始前に民間人をパラオ本島に避難させた。
その後、中川はアメリカ軍のフィリピン侵攻や日本本土進攻を遅らせるため、洞窟陣地を活用した徹底的な持久戦を指揮、2か月半にわたる奮戦によりアメリカ軍に多大な損耗を与えるも、司令部陣地の兵力弾薬がほとんど底を突く。
1944年11月24日、中川は自決、享年46、戦死後に2階級特進して陸軍中将。
日本軍の守備隊は玉砕。

【パラオ国旗】

戦後、パラオは日本統治から離れてアメリカの信託統治領となり、1994年に独立を果たす。
パラオは世界屈指の親日国であると言われており、それには日本統治時代の社会基盤の整備に加え、中川の存在と精神が深く関わっていると言われている。

【パラオ国旗】

戦後、パラオは日本統治から離れてアメリカの信託統治領となり、1994年に独立を果たす。
パラオは世界屈指の親日国であると言われており、それには日本統治時代の社会基盤の整備に加え、中川の存在と精神が深く関わっていると言われている。

(3)栗林忠道(くりばやし ただみち)

【栗林忠道】

硫黄島は東京の南約1080kmに位置し、小笠原諸島に属する火山島である。
島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われていることから、この島名がつけられた。
小笠原諸島で唯一飛行場が建設可能な島であることから、戦略的に重要な地点であった。

【栗林忠道】

硫黄島は東京の南約1080kmに位置し、小笠原諸島に属する火山島である。
島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われていることから、この島名がつけられた。
小笠原諸島で唯一飛行場が建設可能な島であることから、戦略的に重要な地点であった。

太平洋戦争の形勢が不利になる中、日本は硫黄島を含む小笠原諸島を絶対防衛圏として定め、1944年6月に栗林忠道陸軍中将が硫黄島に着任、小笠原方面の作戦指揮に当たる。
栗林はアメリカ軍の水際撃滅は困難と考え、堅牢な地下陣地を構築して長期間の持久戦に持ち込むことを計画、硫黄島の住民を日本本島に疎開させたうえ、1日でも長く守り、日本本土を戦火から遠ざけるとの決意のもと、アメリカ軍との戦いに臨む。

【硫黄島】

※写真=U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 1st Class Trevor Welsh/CC-PD-Mark/PD US Navy/Wikimedia Commons

1945年2月19日、アメリカ軍が硫黄島上陸を開始。
日本軍の兵力は約2万1000、アメリカ軍の兵力は約25万。
日本軍は栗林の指揮のもとに粘り強く戦闘を続け、アメリカ軍に多大な損害を与えたものの、圧倒的な兵力差を前に次第に追い詰められる。
栗林は1945年3月16日に玉砕を意味する訣別電報を大本営に打電、翌17日に戦死、享年53、戦死後に史上最年少で陸軍大将に昇進。
硫黄島の戦いにおいて、アメリカ軍の死傷者数は約2万8000名にのぼり、日本軍の死傷者数を上回った。
栗林はその戦闘指揮により敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。

【硫黄島】

※写真=U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 1st Class Trevor Welsh/CC-PD-Mark/PD US Navy/Wikimedia Commons

1945年2月19日、アメリカ軍が硫黄島上陸を開始。
日本軍の兵力は約2万1000、アメリカ軍の兵力は約25万。
日本軍は栗林の指揮のもとに粘り強く戦闘を続け、アメリカ軍に多大な損害を与えたものの、圧倒的な兵力差を前に次第に追い詰められる。
栗林は1945年3月16日に玉砕を意味する訣別電報を大本営に打電、翌17日に戦死、享年53、戦死後に史上最年少で陸軍大将に昇進。
硫黄島の戦いにおいて、アメリカ軍の死傷者数は約2万8000名にのぼり、日本軍の死傷者数を上回った。
栗林はその戦闘指揮により敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。

(4)島田叡(しまだ あきら)

【島田叡】

「沖縄の島守」

戦中最後の沖縄県知事。
兵庫県武庫部須磨村(現在の神戸市須磨区)に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省。
太平洋戦争末期の1945年1月、沖縄県知事の打診を受け、即受諾。
大阪に家族を残し、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄に赴任。

【島田叡】

「沖縄の島守」

戦中最後の沖縄県知事。
兵庫県武庫部須磨村(現在の神戸市須磨区)に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省。
太平洋戦争末期の1945年1月、沖縄県知事の打診を受け、即受諾。
大阪に家族を残し、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄に赴任。

沖縄県知事となった島田叡は、アメリカ軍の沖縄上陸が迫る中、住民の命を守るために大規模な疎開促進や食糧確保に尽力、沖縄の未来を繋いだ。
1945年3月にアメリカ軍による沖縄空襲が始まると、地下壕の中で執務を始め、以降は沖縄戦戦局の推移に伴って壕を移動しながら県行政を指揮。
しかし、戦争の激化により、1945年6月9日、県庁および警察組織の解散を命じる。
この時、県職員・警察官らに「どうか命を永らえて欲しい」と訓示。
1945年6月26日、摩文仁(現在の糸満市)で消息を絶ち、遺体が発見されないまま戦死となった。
享年43。

1945年7月9日、島田の殉職の報を受け、当時の内務大臣は島田に行政史上初の内務大臣賞詞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。

(5)樋口季一郎(ひぐち きいちろう)

【樋口季一郎】

遊就館には、樋口季一郎陸軍中将の遺影が展示されている。
樋口は終戦後も生き延びたため靖国神社には祀られていないものの、日本を守った英霊の一人としてここに紹介したいと思う。
樋口の事績としては、オトポール事件、キスカ島撤退作戦、そして樺太・千島の戦いがよく知られている。

【樋口季一郎】

遊就館には、樋口季一郎陸軍中将の遺影が展示されている。
樋口は終戦後も生き延びたため靖国神社には祀られていないものの、日本を守った英霊の一人としてここに紹介したいと思う。
樋口の事績としては、オトポール事件、キスカ島撤退作戦、そして樺太・千島の戦いがよく知られている。

第二次世界大戦前夜の1938年3月、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために数千人のユダヤ人難民が満州国国境にあるシベリア鉄道オトポール駅に押し寄せた。
当時、日本はドイツとの連携を強化していたが、満州国ハルビン陸軍特務機関長を務める樋口は、人道的立場から独断でユダヤ人難民らの満州国通過を許可して上海に脱出させた。

太平洋戦争開戦翌年の1942年8月、札幌に司令部を置く北部軍(後に北方軍、第五方面軍と改称)司令官に着任。
アリューシャン方面では、1943年5月にアッツ島が陥落すると(前述)、約6000名のキスカ島守備隊は完全に孤立。
大本営からアッツ島の放棄が命令された時、樋口はそれを受け入れる代わりにキスカ島守備隊の撤退作戦を承諾させる。
キスカ島撤退作戦は、1943年7月29日、海軍とも連携し、霧に紛れて約6000名全員を脱出させる奇跡的な無血撤退を実現。

1945年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾すると、大本営は各方面軍にやむを得ない自衛戦闘を除く戦闘行為の停止を命令。
しかし、1945年8月8日に対日宣戦したソビエト連邦(ソ連)は日本のポツダム宣言受諾後も侵攻を継続、南樺太・千島列島を足掛かりに北海道北部(留萌・宗谷地方など)の占領を目指す。
これに対し、樋口は自衛戦闘であることを盾に日本軍現地部隊に断固反撃を指示、日本軍は南樺太と、千島列島の北東端にある占守島でソ連軍を足止めする。
日本軍の激しい抵抗とアメリカの反対もあり、ソ連軍は北海道本島上陸を断念、1945年8月23日までに停戦が成立、日本軍は武装解除、ソ連は同月28日から遅くとも同年9月5日までの間に北方四島を無血占領、これが現在まで続く北方領土問題となる。
この時の樋口の決断と日本軍の奮戦がなければ、北海道北部はソ連に奪われて分断されていたかもしれない。

【日本軍の戦車部隊】

戦後、ソ連は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に樋口を戦犯として引き渡すよう求めたが、世界ユダヤ人協会の働きかけなどもあり、GHQのダグラス・マッカーサーはソ連の要求を拒否して樋口の身柄を保護。
その後、樋口は公職を離れて家族と共に静かな日々を過ごし、1970年10月11日に82歳で死去。

【日本軍の戦車部隊】

戦後、ソ連は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に樋口を戦犯として引き渡すよう求めたが、世界ユダヤ人協会の働きかけなどもあり、GHQのダグラス・マッカーサーはソ連の要求を拒否して樋口の身柄を保護。
その後、樋口は公職を離れて家族と共に静かな日々を過ごし、1970年10月11日に82歳で死去。

5 おわりに

最後に、太平洋戦争を終わらせた内閣総理大臣、鈴木貫太郎(すずき かんたろう)を紹介し、本コラムの結びとしたいと思います。

【鈴木貫太郎】

海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などの要職を歴任、予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密院顧問官も兼任。
侍従長とは天皇に側近奉仕する役職である侍従の長であり、昭和天皇は鈴木を敬愛した。
枢密院副議長、枢密院議長を務めたあと、1945年4月に昭和天皇の懇願もあり、77歳で内閣総理大臣に就任。
この時点で日本の太平洋戦争敗戦は確実となっており、昭和天皇や鈴木ら重臣は終戦を画策するが、軍部には徹底抗戦を主張する勢力も多く、終戦は容易ではなかった。
1945年7月26日に米英中によるポツダム宣言の提示、日本がこれを黙殺すると同年8月6日(広島)と同月9日(長崎)にアメリカが原爆投下、さらには同月8日にソ連が対日参戦し、日本は窮地に立たされる。
鈴木は77歳の老体を押して不眠不休で終戦工作に尽力、ポツダム宣言の受諾方法をめぐる御前会議において議論が割れる中、昭和天皇の「御聖断」を仰ぐという起死回生の禁じ手により(天皇は御前会議で意見しないのが慣例。天皇による意思の表明・発動は天皇自らにその責任が及ぶため)、ポツダム宣言を受諾して太平洋戦争を終戦に導いた。
1945年8月17日、終戦の責務を全うしたことにより、内閣総辞職。
戦後の1945年12月に枢密院議長に再度就任するが、1946年6月に公職追放令の対象となったため、辞職して郷里の千葉県東葛飾郡関宿町(現在の野田市)に帰った。
1948年4月17日、80歳で死去。
死の直前、「永遠の平和、永遠の平和」と、非常にはっきりした声で2度繰り返したという。

【鈴木貫太郎】

海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などの要職を歴任、予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密院顧問官も兼任。
侍従長とは天皇に側近奉仕する役職である侍従の長であり、昭和天皇は鈴木を敬愛した。
枢密院副議長、枢密院議長を務めたあと、1945年4月に昭和天皇の懇願もあり、77歳で内閣総理大臣に就任。
この時点で日本の太平洋戦争敗戦は確実となっており、昭和天皇や鈴木ら重臣は終戦を画策するが、軍部には徹底抗戦を主張する勢力も多く、終戦は容易ではなかった。
1945年7月26日に米英中によるポツダム宣言の提示、日本がこれを黙殺すると同年8月6日(広島)と同月9日(長崎)にアメリカが原爆投下、さらには同月8日にソ連が対日参戦し、日本は窮地に立たされる。
鈴木は77歳の老体を押して不眠不休で終戦工作に尽力、ポツダム宣言の受諾方法をめぐる御前会議において議論が割れる中、昭和天皇の「御聖断」を仰ぐという起死回生の禁じ手により(天皇は御前会議で意見しないのが慣例。天皇による意思の表明・発動は天皇自らにその責任が及ぶため)、ポツダム宣言を受諾して太平洋戦争を終戦に導いた。
1945年8月17日、終戦の責務を全うしたことにより、内閣総辞職。
戦後の1945年12月に枢密院議長に再度就任するが、1946年6月に公職追放令の対象となったため、辞職して郷里の千葉県東葛飾郡関宿町(現在の野田市)に帰った。
1948年4月17日、80歳で死去。
死の直前、「永遠の平和、永遠の平和」と、非常にはっきりした声で2度繰り返したという。

今後も年に数回の靖国参拝を続け、戦没者に対する感謝と哀悼の意を表すると共に、我が国の永遠の平和を祈念して参りたいと存じます。

記事作成弁護士:木村哲也
記事更新日:2026年8月18日

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